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年収約1,000万円から自己破産へ。会社が倒産するまでにあったこと

会社が倒産して、私も自己破産した。

このブログでは、その後の生活や、再起奮闘の話を書いてきた。

そういえば、そこに至るまでの経緯を、ちゃんと書いていなかったなーと。

もともと収入が少なかったわけではない。専務をしていたころの年収は約1,000万円あった。

そこから、どうして自己破産することになったのか。

今回は、会社のことと、自分の借金のことを、順番に書いておこうと思う。

最初は、母に名前を貸したところから

父が社長。母が専務。当時の私は平社員で、私のほかに従業員さんが4名いた。

そんな家族経営の製作所で働いていた。

まだ平社員だったころ、母から会社の資金繰りのために「名前を貸してほしい」と頼まれた。母が亡くなるより、ずっと前の話だ。

それで、自分の名義で銀行からお金を借りた。金額は200万円。

母が生きていた間は、借金の返済日に合わせて、返済額を振り込んでもらっていた。そのため、返済が自分の生活を圧迫することはなかった。

ところが、2013年に母が亡くなった。

それからは、私がその借金を返していくことになった。

専務になって、年収は約1,000万円

母が亡くなった後、私が専務になった。

もともと平社員のころから、月に80〜90時間ほど残業していたので、お金には余裕があった。

専務になってからの年収は約1,000万円。

ただし、手取りのうち毎月15万円は会社に戻していた。

何のための15万円だったのか。

そこは、もう忘れちゃった。

それでも、コロナ禍までは経済的に余裕があった。自分で言うのも何だが、私の中では栄華を極めていた時期だ。

栄華を極めたと言っても、自分に使うお金は飲食代くらい。

当時は彼女と、その子ども2人と同棲していて、ほとんど彼女ファミリーに全ブッパしていた。

一緒に出かけたり、旅行したりして過ごしていた。

コロナ禍で、私だけ給料が半分になった

コロナ禍に入ると、会社の経営が悪くなった。

そこで、社長である父の独断で、私だけ給料が半分になった。

残業がなくなって従業員さんの給料が減り、生活が苦しくなっているのに、経営者だけそのままではいかん、という理由だ。

ちなみに、その後に残業が増えても、私の給料が戻ることはなかったのであった。

それまで払えていたローンの返済が、一気に厳しくなった。

収入は半分になっても、返済額まで半分になるわけではない。

母に頼まれて借りたお金の返済もあるし、ほかのローンの返済もある。

さらに、弟が病気になってあまり働けなくなり、私が保証人になっていた弟のローンについても、督促が来るようになった。

祖母の施設代も、父から「長男なら払え」と言われ、父と折半で負担することになった。

内心、「息子なら払えや」と思ったんだが、一度言い出したら言うことを聞かないので、渋々払う羽目に。

自分の生活に加えて、こうした支払いが重なっていた。

足りない分を会社から借りたり、クレジットカードを使ったり、別のところから借りて返したりするようになった。

返済しては、また借りる。

そうして気づけば、すんごい借金が膨らんでいった。

今考えると、ほかに解決できる方法はあったと思う。

ただ、当時は「どないしよ???」という状態で、毎日深夜まで残業。頭が冷静じゃなかったんだろうなと思う。

何とかしようと、本業の傍らで副業を始めた

減った収入を補おうと、仕事の傍らで副業を始めた。

自動車用部品などを作って販売する仕事だ。

ただ、始めてすぐに利益が出たわけではない。採算が合うようになるまで、3年ほどかかった。

副業の売上から材料代を会社へ返し、残った利益を自分の借金の返済に回していた。

そんで経理士さんにバレちゃいまして、副業を始めたところまで遡って、売上全部が会社から私が借りたお金として処理されちゃいました。

材料費は返していたが、振込ではなく現金手渡しだったのが裏目に出てしまった……。

今思えば、俺が返した現金は何の勘定で帳簿に入っていたのか気になるところだが、もう確認しようがないもんな。

話はそれたが、返済にお金を回しても、別のところで会社への借金が増えていた。

会社が倒産する約1年前には、彼女との間で、まあまあショックな出来事があり、別れることになった。

この話までここに書くと長くなるので、詳しくはこちらに。

第2章 7年連れ添った同棲相手との決別

副業も含めて「何とかなるかもしれない」と思えるところまで来た時期に、今度は従業員さんの大量離脱があった。

このころには従業員さんは10名いたが、そのうち7名が退職した。

私から見ると、社長の考えに若い衆がついてこなかった。

人が抜けて、また一からやり直し。

だけど、売上は上がらなかった。

立て直すために、できることをやった

私が基本的に担当していたのは、設計、電話応対、お客様への対応、クレーム対応、事務員さんとのやり取り、従業員さんとの製品の打ち合わせだった。

会社を立て直すために、取引先への値上げ交渉もした。材料費を下げるための交渉もした。

いろいろやったが、結果としては徒労に終わった。

売上は上がらず、会社の経営も、自分の返済も、厳しいままだった。

完全にすっからかんになる前に、経理士さんからの提案もあり、会社を畳むことを父に勧めた。

そうして、倒産の方針が決まった。

このときは、本当に終わらせていいものなのかと考えはした。

ただ、資金ショートまで時間が残されていなかったので、「しゃーない」と割り切った。

だって、すっからかんで夜逃げはしたくないんだもん。

2025年6月30日

2025年6月30日、会社は事業を廃止した。その後、会社の破産を申し立てることになった。

私も仕事を失い、個人で抱えていた借金を返していくことが難しくなった。

弁護士に相談し、自分も自己破産を申し立てることにした。

母に頼まれて、自分の名義で借りたお金。弟の保証人としての支払い。家族との生活に使ってきたお金。そして、収入が半分になってから、返済を続けるために増えていった借金。

そこに会社の倒産が重なった。

これが、私が自己破産に至るまでの経緯だ。

その後は再就職し、今は働きながら生活を立て直している。

自己破産の手続きを経て、免責に至るまでの続きはこちら。

再起奮闘・最終章|免責の旅、タント先生と佐賀へ

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